牡鹿半島へ
「朝4時頃、漁に出ますが船は平気ですか?長靴とライフジャケットはお持ちですか?石巻市ですが、結構先の方なのでお気を付けて」
取材日程を前に、先方が心配そうに確認の連絡をくれました。<船は平気。長靴は持っているけれど、さすがにライフジャケットは持ってないよなぁ…>ホヤの収穫時期が終盤ということで10月末、滑り込みで取材をさせていただきました。
石巻市へは何度も行ったことがありますが、市内でも牡鹿半島エリアに行くのは初めて。前日の夕方、漁港近くの宿へ向かう道中は、想像を絶するヘアピンカーブの連続で、本当に驚きました。到着すると、開口一番「鹿いませんでした?」と聞かれ、またびっくり。
海に向かって来たはずが、こんな高台を訪れることになるとは思いませんでした。三陸海岸の最南端、太平洋に向かって南東に尽きだした牡鹿半島。豊かな海の恵みをもたらすリアス式海岸の地形の雄大さをまざまざと見せつけられました。
ホヤの名産地で新規就漁、1代目
宮城県はホヤの生産量・消費量共に全国トップクラスです。どの浜でも、“よそ”から来たと分かると「これ食ってかいん」「食べらいん」(※地元の方言で食べていきなさいの意味)と必ずと言っていいほど勧められます。
中でも、牡鹿半島・鮫浦湾に位置する谷川浜は、ホヤの天然種苗の一大産地です。国内のホヤの主な産地は北海道、青森、岩手、宮城。三陸地域のホヤのなんと9割は谷川浜の種から養殖されています。地形に恵まれ、豊富な栄養で育つプランクトンがホヤの養殖に最適なのです。
そんな”ホヤの聖地”谷川浜で、ホヤ漁師を営む渥美貴幸さん。家業を継ぐのではなくご自身で新規就漁したという、地元でも珍しい経歴の持ち主です。
漁師への憧れ
漁師町の子どもの遊び場は海。漁を終えて浜で仕事をする大人たちの近くで遊ぶのが日常です。渥美さんが漁師に憧れたきっかけは、初めて出会った漁師さん。友だちのお父さんでした。「いかにも漁師という感じの人」で、学校帰りに浜に行けば親と一緒に過ごせる友だちのことも羨ましく思っていました。地元の水産高校に入学。卒業後、漁師になりたいという気持ちもありましたが、周囲には家業を継いで漁師になる人しかいません。身内には「お前には無理だ」と言われてしまいます。
実際に漁船に乗ってみると、漁師の息子たちとの圧倒的な経験差を実感。それでも、渥美さんは漁師になる夢を捨てられませんでした。この地域の漁での“量”的な経験値では、彼らには敵わない。その差を埋めるために“種類”で経験を積むことにしました。北海道でサンマ漁、福島で鱈漁…短期間で様々な魚・漁法を経験し、25歳の時に地元で念願の漁師となりました。
子どもの頃からの憧れの人は今、同じ浜の漁師仲間です。「漁師というか、“その人”が好きなんですよね。後から分かりましたけど」と渥美さん。
初出荷からの東日本大震災、そして再び漁師に。
ホヤ養殖は出荷までに3年かかります。“3年子”と呼ばれる3年もののホヤになり、ようやく出荷した翌年、東日本大震災が起きました。養殖棚などを全て流された渥美さんは、諦めきれない気持ちを持ちつつも、他の仕事に就業。再び漁師に戻ることに葛藤がありました。
しかし、漁協の先輩からの「戻ってこなきゃダメだからな」という言葉に背中を押されます。若手の自分が、地元漁師として認めてもらえていた証だと感じました。この時、なんと憧れの漁師さんがいつでも戻れるように漁具などを準備してくれていました。
また0からのスタート。待ってくれている人もいるけれど、自身は被災し、身近に津波で亡くなった方もいる。複雑な思いに踏ん切りをつける理由が必要でした。
「息子はちょうど1歳。この子が20歳になる頃、水産業はどうなっているだろう。自分が憧れたように、押し付けじゃなく漁師になりたいと思ってもらえるような水産業であって欲しい」そう考えた渥美さん。
子どもの頃の憧れは、大人になっても色褪せず、原動力に繋がりました。「次の世代に繋ぐ為に頑張りたい」と、再び谷川浜に戻ったのです。
「儲からない」を変える決意
元々、宮城県の生産量の大半の出荷先が韓国でしたが、2013年から東日本大震災後の禁輸措置で輸出できない状況が続いています。ご存知ない方が多いかもしれませんが、2016年からの2年間は、この輸出できなかったホヤの大量廃棄がニュースにもなりました。廃棄の場合には東京電力からの収入補填があったのですが、自身で販路開拓をしていた渥美さんはこの苦境を、自分が手がけたホヤだけは絶対に廃棄しまいと、歯を食いしばって乗り越えました。
「そんなことなら陸(おか)から戻って来ませんよ」
漁師の世界では、沖に出た漁船からの目線で、「陸地=陸(りく)」のことを「陸(おか)」と呼びます。穏やかな渥美さんから、強い漁師魂を感じました。
渥美さんが就業した頃は、まだ漁師が儲かる時代でした。燃料問題、環境の変化…現在、漁師は儲からない職業になってきています。「今まで通りのことをしていたら、とてもじゃないが食べていけなくなる」と昨年、加工場も建てました。今回開発するのは、その加工場完成後初の商品となります。
品質向上のヒントを探して
ホヤを一度出荷したばかりの新米漁師。子どもの頃から鮮度抜群の美味しいホヤしか知りません。しかし、自慢のホヤを首都圏に出荷すると、当初は芳しくない評価続き。「自分の想定よりも美味しくない状態で届いていた」と振り返ります。何が違うのか原因を探り、水族館の魚の運送方法を真似て発送してみるなど試行錯誤を重ねました。
ちょうどその頃、立ち上げたばかりの“東北食べる通信” ※1 とご縁がありました。
※1 “東北食べる通信”は、つくる人と食べる人のココロをつなぐというコンセプトで発刊している食べ物付きの情報誌。東日本大震災後の東北を皮切りに、全国30カ所以上で発刊しています。
課題を見つけるため“東北食べる通信”での販売を始めます。「がっかりした」とコメントをくれたお客さまには直接連絡し、詳しくヒアリングを重ね、改善に取り組みました。以来8年間、毎年美味しいホヤを届けることが渥美さんの指標の一つになっています。
“ほやほや学会”会長・田山圭子さんも頼もしい協力者です。ホヤの認知向上、販路拡大を目指し鮮度管理の基準を作る等、精力的に活動しており、今回の商品開発にも惜しみなく協力してくれています。
「自分で気付いたというより、みんなに教えてもらった」渥美さんは、仲間や消費者の率直な意見や価値観を真摯に受け止め、販売に活かしてきました。今では飲食店を中心とした首都圏のお客様との信頼関係がしっかり根付いています。
文・写真:石山静香